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活きる。

by 榊花乃

今日は部屋の掃除をした。今回の掃除の目的は、飽和状態の本棚を整理することだった。文集や卒業アルバム、思い入れの深い教科書やノートなどの思い出類は、箱にまとめてしまってしまおうことにした。それでも淡く残る名残惜しさの末に開いた、小学4年生の頃の作文に可愛くないことが書いてあった。その作文のテーマは、運動会のリレーについてであった。

みんな走る。速い人も、おそい人もグルグル走る。だけど、みんなおわりは、おじいちゃんやおばあちゃんになってしぬ。

怖いけれど、ここまで言えた幼き自分が若干好きでもある。確かにこれではいじめられても仕方ないかもしれないと、当時の自分に同情する。だけど、驚きはしない。なぜなら、今の自分も同じようなことを考えているからだ。
どんな人だって最後は死ぬ。アイルランドの歌姫も、義足のスプリンターも、渋谷のスクランブル交差点ですれ違う全員も、校長先生も、小説家も、マフィアも、そして私も、みんな最後は死ぬ。そのあとに世界が続くかどうかというのは、人それぞれ思想によりけりだけど、ひとまず2度と呼吸をしなくなるという意味の死を迎えるのは、みな平等な未来であることは確かなことだ。(ちなみに、私はその後は、素粒子になって解散して、海水とか、タイヤとか、キリンとか、ありとあらゆるものに変わって行くと思っている。)

そう考えると、「せっかくなら思いっきり」という気持ちが湧いてくる。

この気持ちは、陸上部の時に3000Mを走っていた時の気持ちに似ているような気がする。
どうせ終わる。速くても、遅くても、ゴールはある。苦しくても苦しくなくても、ゴールは必ずとしてある。遅いのは恥ずかしいけど苦しくなくて、速いのは嬉しいけど苦しい。水を取ればタイムは落ちるけど、一瞬の爽快感を得られるし、もしかしたら、気分が転換して、加速できるかもしれない。今までの練習を悔やんだって、今の私の走りを決めるのは、今の私だ。どんな走りをしたってゴールはある。そしてもう2度とこのレースをやり直すことはできない。そうなった時に、今の自分がどう走りたいかが、生き方だと思う。作戦を練ってその通りに走るのも一つだし、その時その時の自分の体と対話してスピードを上げたり下げたりするのも一つだ。もし周りの目が一切怖くないのであれば、スキップで朗らかに走り抜けたって良いし、グループについて行くのが好きならそうしても良いし、最後の最後でそのグループを突き放してしまうのもありだ。走り方が人それぞれなように、活き方も人それぞれだ。どうして人それぞれなのか。それは、人それぞれ、心の満たされる理由が違うからだと思う。せっかくなら思いっきり、自分の心を幸福で蒸して潤して満たして、活きていきたい、と私は思う。

それでは、どうやって活きて行くか。私は活きている心地を携えて活きていたいと思う。実は今も、活きている心地はちゃんと持っていると言うことができる。くだらないことだけど、死に際を感じた経験があって、それ以降は、冬に吐く息が白かったり、爪がスマートフォンを叩く音を聞くだけでも、活きた心地を得ることができる。側から見れば、少し気持ち悪いのかもしれない。自分でも、自分が少し気持ち悪いと思われる人間だと言うことは、解る。それは、嬉しくもなければ、悲しくもない気持ちで、それは多分側からの印象がさほど重要ではないからだと思う。
一方で私としては、若干気持ち悪い人の方が好きだ。気持ち悪さをどうしても美しさに感じてしまう。気持ち悪いと言うのは、なんとも大雑把な表現だが、表出について少し思い切りがあったり、側からの印象より自分が今どう過ごしたいかを大切にすることができる人が好きだ。そういうと、わがままで自分勝手な人、と捉えられてしまうが、そうではなく、大きくて静かな愛情を持っていることは前提としてある。

例えば、SIA。私は彼女が大好きだ。心を表出するという営みは、美しすぎる。手に指が5本ついていることがゲシュタルト崩壊のように気持ち悪く感じられ、膝が曲がったり、お腹の滑らかな曲線とかから、人間の匂いがして、笑う顔がぞっとするほど怖くて、ずっとは見ていたくないのに、愛おしくてずっと見ていたくて。彼女の芸術に触れると、世の中の形式的なステップに沿って生きている中で、摩耗されかけた、活きた心地を思い出させてくれる。


I found solace in the strangest place
Way in the back of my mind
I saw my life in a stranger's face
And it was mine

自分の人生は自分のためにある、他人に愛情を与えるのも与えたいと思う自分のためだと思う。
だから、自分の心を幸福で蒸して潤して満たして、活きていきたい、と私は思う。


榊花乃
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