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小説『「可哀想」いかがでしょうか。』②

by 榊花乃

オフィスに行くと、藍子が紗和子さんのデスクに手をつきピンクのミュールのかかとを弾ませていた。
「すっごい胸にきたよ。えぐられたー。すごい良かった。こんな悲しみ久しぶりだったね。はぁー、思い出すだけで泣ける。藍子も行ったほうがいいよー。」
紗和子さんは胸を撫でながら抱いたばかりの悲しみを愛でていた。
「えー羨ましいですー。私ほんとうに最近悲しみに飢えてて、なんのために働いてるのか分からなくなっちゃうんですよねぇ。私も悲しみ温泉行こうかなぁ。」
「絶対行ったほうがいいよぉ。汗と悲しみどっとでて超きもちいよぉ。」
どうやら、先週できたばかりの悲しみ温泉の話をしているようだ。丁度私も、今朝のニュースのトレンドコーナーで見たばかりで記憶に新しかった。アナウンサーは、温泉に浸かりながらフランダースの犬を見て涙を流していた。「汗なのか、涙なのかもう分からないでーす!」と、潤った顔を光らせて興奮した様子で、しかし、今悲しみの絶頂を迎えている他のお客さんへの配慮を忘れない密やかな声で感想を伝えていた。
「あ、岬さんおはようございます!今、悲しみ温泉の話してたんですー。あ!岬さん、今度一緒に行きません?私結構、動物泣きしないタイプなんですけど、フランダースの犬は泣いちゃうんですよねぇ。」
「まぁ別にいいけどぉ、私なんかでいいの?もっと悲しみ体質の方が楽しいんじゃない?」
藍子は、人差し指を、チッチッチッと振ってから言った。
「岬さんだからいいんですよぉ。私より悲しむ人だと、あぁー悲しみきれなかったぁって悔しくなっちゃうんですよね。嫉妬ですよ嫉妬。じゃあ来週末お願いしますね!」
藍子は、ウインクのような跳ねたまばたきを私に投げてから、デスクに戻った。そしてスケジュール帳を開き、雫型のシールを貼っては「よしっ」と仕事を始めた。
私もデスクに向かい熱いコーヒーを飲み込んでから、ふうーっとひと息を吐いて窓の外へ視線を送った。1日が始まる白い朝を眺めた。カタカタとキーボードを打つ音が聴こえていることに気がついた。布施さんの音だ。100メートル走の位置につく前のジャンプのように、私を高める。私もそろそろ走りだそうか。位置について、ノートパソコンを開いて、パワーボタンを押した。人差し指から、多少のエネルギーを指先からパソコンに注入している間、まだ定刻を迎えていないのにパソコンに食らいつく布施さんの横顔をのぞいた。布施さんは、近年では稀な禁悲しみタイプの人で、悲しみ活動をしていない。時々お酒を飲まない人がいるみたいに、「私、悲しみだめなんで。」と付き合いの悲しみ活動を断るのだった。周りの人は禁悲しみタイプの布施さんを蔑むというより、哀れんでいた。「悲しまないで、どこでストレス発散してるのー?」と藍子がこの前の飲み会で聞いていた。布施さんは「私悲しみ処女なんで大丈夫なんですよね。」と菜の花畑のようなふんわりと暖かい笑顔でそれに答えていた。布施さんのような禁悲しみタイプの人は、現代でもクラスで1人くらいの割合で存在していた。禁悲しみタイプの人がいると、いつも「悲しみ活動のない人生なんて考えられないー」と叫ぶ子がいて、「いやでもほんとそうだよねぇ」と悲しみ活動が尋常であることをお互いに確認し合う。実はその時私はいつも「そこまでではないな」と感じていた。悲しみ活動をすると、生きた心地がするのは確かだが、悲しみ活動がないとやっていけないとは思ったことがない。中には中毒の人もいるから、私はおとなしい方だなと思う。最近では悲しみ中毒の人にむけて、喫煙ルームならぬ、悲しみルームがあるオフィスも少なくない。小さい丸のスタンドテーブルの中央には、ティッシュが置かれていて、ぶら下がったモニターでは世界中の悲しいエピソードが流れている。サラリーマンたちは休憩の最後の5分を悲しみルームで過ごして、ひと泣きしてから仕事に戻るのだった。




榊花乃
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